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創業者・市村清

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今月の市村清

“今月の市村清”―2017年12月編―

『創業者・市村清 逝く』

1968(昭和43)年12月16日(月)午前7時13分。市村清はこの世を去りました。死因は『癌』。

食道に発生した癌が短期間のうちに左頸部のリンパ節と肝臓に転移していて、特に肝臓の機能障害は致命的なものでした。

当時、市村は時代の寵児ともてはやされ、経営の神様・アイデア社長として有名でしたから、その動静ましてや病名は傘下企業の株価にまで影響を及ぼすほどの大きな関心事でした。そのため本当の病名は伏され、発表された病名は「慢性肝炎と急性肝萎縮症」とされています。

最初に癌の兆候が現れ、市村が身体の不調を訴えたのはその年の6月ごろ。

5期(2年半)連続のリコー無配転落から、ようやく前年9月に復配にこぎつけたところでした。

出張の折、親友で大阪回生病院医師の村山長一氏に診察を依頼すると肝臓の周辺に硬いしこりがあるのに気がつきました。が、この時は東京の主治医によく相談してみるからと市村を励まして東京に帰したそうです。

再び大阪の回生病院で人間ドックに入ったのは、9月9日。かなり精密な検査を実施し、結果が出たのが2週間後。冒頭説明した食道癌がリンパ節と肝臓に転移していることが明らかになったのです。しかし、当時の医療水準では市村の身体を蝕んだ癌を治すことは不可能でした。また、この時代はまだ「癌=死」のイメージが強くあったので当人にも本当の病名は伏せられていました。そのため、己の生命力を疑うことなく、入院中にもかかわらずかねて約束のあった新大阪での講演に医師同伴で出かけています。

その後、10月3日に帰京し、自宅療養に努めることになりました。日に日に病床に伏していることが多くなりましたが、10月30日にリコーの増資発表の打合せ、10月31日は三愛の株主総会出席、11月4日に兜町でのリコー増資記者発表会見、そして11月5日のリコー三愛グループ合同運動会出席…と、病身をおして精力的に活動しています。

しかし、いよいよ衰弱がはっきりと見て取られるようになり、11月17日に信濃町の慶応病院へ入院することになったのです。そして冒頭の12月16日を迎えるのです。

12月20日(金)に葬儀が行われた築地本願寺は7,000名を超える会葬者で溢れていました。各界の名士など生前の市村清の交友の広さ、深さを物語っています。

以下 その一端を簡単にご紹介します。

弔辞 経団連会長 石坂泰三氏、内閣総理大臣 佐藤栄作氏、佐賀県知事 池田直氏
弔電 衆議院議長 石井光次郎氏、日銀総裁 宇佐美洵氏、マイアミ市長、オーストラリア政府、…
焼香参列者 衆議院議員 三木武夫氏、運輸大臣 原田憲氏、オーストラリア大使、海外取引先社長、など政財界の方々多数。
告別式参列 三笠宮宣仁親王殿下、佐藤首相夫人らの献花から始まり、1時間半に渡る人の波…。

葬儀当日、築地本願寺へ向かう市村の棺は遠回りをしてリコー大森事業所前の環7道路を通過しました。その際700名ほどの社員が歩道に並び、市村を偲んでお見送りしたそうです。

翌1969年1月19日、市村清は佐賀鍋島家の菩提寺でもある東京・麻布の賢崇寺に納骨されました。戒名は「泰徳院殿三愛清壽大居士」(たいとくいんでんさんあいせいじゅだいこじ)。亡くなる直前まで仕事のこと、会社や社員のことを案じ活動した、まさに仕事の鬼だった市村清。その死は、まさに壮絶な死というほかないものでした。合掌。

画像:市村清の社葬が東京・築地本願寺で執り行われた

市村清の社葬が東京・築地本願寺で執り行われた

画像:リコー本社前で市村清にお別れする社員たち

リコー本社前で市村清にお別れする社員たち