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今月の市村清

“今月の市村清”―2018年8月編―

ついに、死線を越える

画像:踏切

幾多の困難を乗り越え不屈の精神で起業した市村が、自分ではどうすることもできない生命の危機に直面したのは、1941年8月20日のことでした。この日も市村は普段どおり、運転手が運転する社用車で馬込の自宅を出発しました。大井町線戸越公園駅付近の踏切で下り電車の通過を待ち、遮断機が上がったところでゆっくり踏切に進入しました。まさにその時、上り電車が猛スピードで踏切に進入してきたのです。電車の運転士は急ブレーキをかけましたが停まることができません。市村の乗った車は電車と衝突し、車体は30メートルほど引きずられアメのようによじられ原形をとどめず、市村も救急隊員によってすぐさま救出されたものの、ワイシャツが血で染まり意識もなかったそうです。市村は戸板に乗せられ、その容態から顔には白い布がかぶせられ、運ばれた先は昭和医大付属荏原病院の霊安室でした。

衝突からおよそ30分過ぎたころ、市村は霊安室で意識を戻しました。しかし、手を動かそうにも全身に痛みが走りうめき声しか出てこない。その気配に気づいた救助員が「生きてる!先生、この人、生きてるようです。」

すぐさま精密検査を受けると、全身打撲と擦過傷、肋骨が5本折れ、そのうちの1本が肺葉に突き刺さる重症でした。市村は「もう、自分は助からないかもしれない。」と悟り、幸恵夫人に会社の重役たちを呼ぶよう指示をしました。渾身の力をふり絞って檄を飛ばす姿はまさに経営者の執念そのもの。ところが市村と面会した重役が、「社長は絶対安静なんです。仕事のことをいちいち聞いていたら医者に怒られます。」と反論したものだから、もう大変。「冗談じゃない!君たちは、医者の言うことを聞いても、僕の言うことが聞けんのか!」と彼らの頭上に大喝を浴びせました。慌てて外科部長が飛んできて、「病床で怒鳴らないでくれ」と懇願したほどでした。翌日、レントゲンでよく調べてみると驚いたことに骨は肺から抜け、その傷は快方に向かっていました。それは、市村がかんしゃくを起こして重役たちを大声で怒鳴りつけたときの空気の圧迫作用によるものでした。こうして市村は奇跡的に自らの生命力で危機を脱したのです。

しかし、本当の苦痛はこれから。急を要する肋骨調整の手術は、麻酔の用意を待つことができず、麻酔なしで行われました。市村は想像を絶する激痛に耐え立ち会った幹部社員を前に、最後まで“痛い”と言わず気力と精神力で乗り切ったのです。市村はこの事故で、人間が死の壁を越えるときには、感覚的には痛くもかゆくもない、ほんの一瞬のことだということを体験し、このあと“死”というものがそれほど怖くなくなったと言っています。