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創業者・市村清

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市村清の功績

儲けるより儲かる明治記念館

「明治記念館」創立記念撮影
市村夫妻を囲む役員・社員一同
(1947年11月1日)

敗戦直後、明治神宮は参拝者もなく、すさみ果てていました。

1947年夏、明治神宮再建に力を貸してほしいと依頼を受けた市村は、神宮の森に焼失を免れて立つ憲法記念館の建物を見ているうちに、一つのアイデアがひらめきました。

「結婚式場はどうだろうか。戦争が終わって、外地や疎開先から人々が帰ってくる。若い人たちの結婚も急増するに違いない。それなのに荒廃した東京には結婚式場などどこにもない。もしここに大衆にも利用できる結婚式場や披露宴会場を開いたら、どんなに喜ばれるだろう」

しかし、事業として成功するかどうかは未知数ですから、重役会は猛反対。市村は、損失が出た場合は個人で責任を負う覚悟で建設事業まで引き受けたのです。

予想に反して、結婚式場・明治記念館は大成功を収め、真冬や真夏の結婚オフシーズンには、宴会や同窓会などの会合にも使われるようになって、繁盛を続けたのです。

「事業というものは、儲けようとすればおのずと限界がある。けれども、道に即してやれば、自然に儲かるものであって、その利益は無限大だ」。市村清の経営哲学の一項目「儲ける経営より儲かる経営」は、このときの経験に基づくものでした。

ショッピングセンターの草分け西銀座デパート

「西銀座デパート」オープニングのテープカットをされる三笠宮・同妃両殿下と市村
(1958年9月30日)

東京・有楽町、あの有名な日本一の宝くじ売り場があるショッピングセンターが「西銀座デパート」です。

東京は戦後の復興によって近代都市に変貌、中でも高速道路と地下鉄網の建設は目を見張るものがあり、1955年頃には、西銀座の名所であった数寄屋橋の堀も高速道路のた東京は戦後の復興によって近代都市に変貌、中でも高速道路と地下鉄網の建設は目を見張るものがあり、1955年頃には、西銀座の名所であった数寄屋橋の堀も高速道路のために埋め立てられ、道路下は事務所や商店街にと姿を変えていきました。

数寄屋橋付近の道路下の商店街計画は3区域に分かれて進められており、真ん中の銀座ショッピングセンター内に出店を予定していた「三愛」の経営者・市村も、建設対策委員会のメンバーに名を連ねていました。

ところが、ショッピングセンターの工事は思うようにはかどらず支障が続出、資金繰りにも行き詰まって、運営は暗礁に乗り上げたのです。

その打開策として白羽の矢が立ったのが市村でした。市村の人脈を利用して、銀行団から融資を引き出そうというわけです。銀座のためならと承諾したものの、融資の交渉は難航をきわめ、銀行団の協調融資が成立したのはその年の大晦日でした。

市村を初代社長として新たにスタートした「西銀座デパート」は有楽町の新名所となり、「三愛」はおしゃれな女性たちでにぎわいました。

プラス・マイナス採点法ホテル三愛

札幌「ホテル三愛」
オープニングセレモニーにて
(1964年7月26日)

札幌・中島公園に隣接する「札幌パークホテル」の前身は、市村清が創設した「ホテル三愛」です。

「札幌に豪華なホテルを造ってくれませんか」という要請を受けた市村は、事業開始に際しての原則としていた「プラス・マイナス採点法」を用いて計算。「札幌という立地条件はシーズンオフが半年近くあるので、マイナス70点、しかし、地域独占の事業になるので、プラス80点。その他……」、総合点がプラス60点以上になると判断して建設を決断しました。

1964年、札幌に姿を現したホテル三愛は、IOCのブランデージ会長が「すべてが国際級」と賛辞を贈ったほど超豪華なものでした。

しかし、市村の事業の中心であるリコーの不振もあって、ホテル三愛をわずか2年足らずで手放すことに。市村は社長退陣の際、従業員を一堂に集めて、みんなの身の振り方については全責任を持つと話した後、絶句して男泣きに泣いたのでした。

その後、ホテル三愛は五たび運営会社を変え、名称も変えてきましたが、三愛精神は創業の精神としてしっかりと受け継がれているそうです。

"何でも貸します"日本リース

「日本リース・インターナショナル」設立パーティーで、佐藤栄作科学技術庁長官(左から2 人目)らと歓談する市村(右から2人目)
(1963年8月1日)

1963年の夏、市村は日本初のリース会社「日本リース・インターナショナル」を創設しました。当時、リース業はアメリカではすでに盛んになっていましたが、所有欲が強い日本人には不向きと考えられていました。

しかし、市村は「使用すれど所有せず」というのがこれからの大きな動きであると見ていました。「物でも人でも金でも、膨大な量の所有熱に浮かされて腐らせていた時代はもう過去のもの。個人的にも社会的にも、すべてフルに活用するのが時代の要請になってきたことを知るべきである」というわけです。

日本リースの誕生は全国に大きな反響を呼び、「使用すれど所有せず」「利益は所有からではなく使用から生まれる」などのキャッチフレーズも話題になって、アイデア社長健在なりの印象を世間に与えたのです。

実は「人間も貸します」という人材派遣業も構想したのですが、当時は職業安定法に触れて実現しませんでした。現在のリース業や人材派遣業の隆盛を見るとき、市村の先見の明に驚かされます。

自然と共生する観光業三愛観光

大分国体にご出席の際、「三愛レストハウス」に立ち寄られた天皇・皇后両陛下をご案内する市村(右)
(1966年10月)

熊本の阿蘇五岳と九重連山を一望できる瀬の本高原に、三愛観光が運営する「三愛高原ホテル」と「三愛レストハウス」があります。

自然の人間の心に及ぼす力は非常に大きいと感じていた市村は、常々自然と共生する観光事業のあり方を追求していました。

1963年、瀬の本高原にある南小国村の村長がやってきました。村長は、別府・熊本間の横断道路が開通すると、雄大な大自然が観光業者たちによってめちゃくちゃにされてしまうのではないかと心配しており、そうならないために市村に南小国村の土地開発を委ねたいというのです。

村長の意を汲んだ市村は、天然の風光を絶対に傷つけずに、天然と人工とをどういうふうにマッチさせるかということに最大の関心を払い、完成させたのが二つの施設です。

ホテルから阿蘇の雄大な景色や星空を眺めていると、自然がいかに大切な観光資源であるかを実感します。

【出典・参考文献】
『茨と虹と』尾崎芳雄 
『明日への着眼』市村清
『儲ける経営法・儲かる経営法』市村清