三愛会会誌 173
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創業者・市村清物語『三愛会会誌』グループ各社の連携を深めるツールとして『自蹊会会報』『三愛』『Sanai』 1944年8月、市村は自身が経営する7社構成で「自蹊会」を発足しました。戦争という緊迫した状況下で、各社間の連携や意思疎通を強化することが重要であると考えたからで、そのためのツールとして機関誌『自蹊会会報』も発行しました。しかし、戦火が激しくなり、会報は4号で中断されました。1945年8月、終戦。翌46年4月、市村は「自蹊会」を「三愛会」と改め、グループ機関誌『三愛』を発行、その誌上で「三愛精神」(人を愛し勤めを愛す)を発表しました。 〝機関誌『三愛』の意図は「我々と志を同じくし、憂いを分かつ者の間に育まれる友情から、互いに語り合う場所を提供すること」にある。“ 「従業員は使用人ではなく、事業の協力者である」という信念を持って事業経営に携わってきた市村にとっての最大の望みは、グループ会社とその社員たちが三愛会や機関誌『三愛』を介して強いきずなで結ばれることでした。ザラ紙に印刷されたわずか16ページの冊子でしたが、毎号、市村の所感、職場報告、随筆、そして社員たちの俳句や短歌も掲載されるという充実した内容国を愛し で、制作者たちの熱い思いが伝わってきます。しかし、グループ全体の組織改革などの諸問題により、49年11月の第12号を最後に休刊を余儀無くされました。1954年4月、復刊1号『San-ai』が発行されました。 〝三愛会会誌を復刊することは、久しく私の考の中にあったことであるが、それには、まず三愛会そのものの機構を改め再出発しなければならないので、却々その機が得られなかった。それ故、この度会誌が再刊されるということは、三愛会が漸くその面目を新にする時が来たということである。“(復刊に際して 市村は復刊への喜びを込めて巻頭言を記しました。そして、さらに、「三愛会はグループ各社を互いに結び合う紐帯である、会誌はそのためのツールであり、会誌が立派に成長して有為なる機関誌になるか否かは、各社社員たちの心構えにかかっている」とも述べています。*     今年、『三愛会会誌』が復刊から70年目を迎えました。その姿や目的は時代に応じて変化してきましたが、リコー三愛グループの社員の皆さんや編集に携わった方々の力を得て、今日まで連綿と続いてきたのです。  *      - 5この70年の歴史を天上の市村も温かく見守っていたに違いありません。会長市村清)*      1954(昭和29)年1月4日、大森の理研光学工業において、三愛会合同新年会が開催された。 当時の三愛会傘下企業は理研光学工業(現リコー)、三愛石油(現 三愛オブリ)をはじめ全8社。 この年、理研光学は、50年に発売したカメラ「リコーフレックス」の大ヒットにより工場を新築(4月完成)、カメラの大量生産体制を確立した。三愛石油は、日航機に対する給油作業が従来の米国スダンダード石油から三愛石油に移行されることになり、2月8日、両社間で移譲式が挙行された。そして、4月、会誌が復刊した。挨拶をする市村清余興の福引大会で、当選者に賞品を手渡す市村。左隣は幸恵夫人市村清フォトアルバム1954年正月、三愛会合同新年会を開催

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