名称を公募 うので︑止むを得ず中央の柱の中にエレベーターを入れてしまい︑周りは柱なしという円筒ビルになったのですが︑それでも前例のないものでしたので︑建築許可を取るのに2年半もかかってしまいました︒ 建物そのものが斬新であり過ぎたために︑資材も店内装備も照明も︑すべて新しく考え出さなくてはなりませんでした︒建物の壁になる硬質ガラスは特殊な硬度のものを作り︑東京の郊外で何度もテストを繰り返して︑ようやくOKになりま しっかり採算性も考える したし︑屋上に設置する円形広告塔の許可を取るのにも何度も折衝を重ねました︒ てが規格外ですから︑建築費用も想像をはるかに超えるものでした︒ しかし市村は︑この夢の建物の経営計画の中で︑事業としての採算性を度外視していたわけではなく︑巨額な建築費用を回収することも抜かりなく計算に入れていました︒ 例えば︑ビルの清掃です︒総ガラスの建物ですから︑いつもきれいに磨いておかなければなりませんが︑その費用もばかになりません︒そこで思いついたのが︑洗剤メーカーの宣伝でした︒商品名を背中に染め抜いたハッピを着︑﹁〇〇洗剤で清掃中﹂と書かれたゴンドラに乗ってビルを洗えば︑宣伝効果は抜群︒月50万円の清掃費を上回る広告料が得られるに違いないという計算です︒果たして︑洗剤メーカーからのオーダーが殺到したのです︒ 次がフロアの使い方です︒この建物は地下2階から地上9階までの延べ面積は800坪︵約2600㎡︶︑売り場面積はそれほど広くはありません︒しかし︑地下3階に設置した三菱電機の電気設備は︑普通の店舗の10倍の照明が可能でした︒そこで︑これを利用して2フロアを貸し展示場として提供することにしました︒結果︑屋上の三菱電機の広告塔を合わせると︑売り場として使う場合の3倍もの利益を見込むことができたのです︒ 愛の改装工事は︑約2年半を経て終わり︑名称も﹁三愛ドリームセンター﹂に決定して︑開店を待つばかりとなりました︒ ところで﹁三愛ドリームセンター﹂という名称が公募で決まったことをご存じですか? 最終的に︑応募総数5万通の中から︑金賞︑すなわち名付け親になったのは品川区に住む西脇千恵子さんでした︒ 62年10月17日に三愛本社の社長室において授与式が行われ︑金賞として賞金10万円のほか︑副賞のハワイ5日間ペア観光旅行が贈られました︒ また︑銀賞︵賞金10万円︶に選ばれた俳優の園井啓介さんは︑その縁もあって︑その後︑リコーのCMにも出演されました︒ 組んだ奇抜な披露宴が始まり⁝⁝︒10「名称応募」当選者賞金授与式。 左から、市村、幸恵夫人、園井さん、西脇さん(1962.10.17)新ビルの模型を前に構想を語る市村清(1960年頃) さて︑何から何まで初めてづくし︒すべ 1961︵昭和36︶年5月に着工した三 63年1月13日深夜︑いよいよ市村が仕
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