リコー三愛会グループのご案内 2025
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病気を克服。同時に精神の健康も取り戻していた。上海に異動して、約5年を過ごし、その間に結婚もした。村は横領の嫌疑で5カ月の監房生活を送る。嫌疑が晴れて帰国し、熊本で富国徴兵保険の保険外交の職に就くが、なかなか契約が取れない。夜逃げを考えたとき、〝せめて一口取ってから〟と妻に励まされ、ようやく最初の契約が取れたのは熊本に来てから69日目であった。それからはとんとん拍子で、全国一の契約高を達成した。店の吉村商会の権利を譲り受け、福岡に初めて自分の店を持った。店主兼外交兼配達人兼荷造りで、がむしゃらに働き、半年目からは大幅に業績を伸ばす。間もなく新店舗を構え、朝鮮、満州の総代理店の権利も獲得した。化学興業の感光紙部長に就任。ところが、学歴もなく、一代理店の店主に過ぎない市村への破格の厚遇が、一流大学出の部長たちの恨みを買うこととなる。思いあぐねた市村は「何もしない」と決めて、遅い出社、昼はサロン通い、早い帰宅の生活を3カ月ほど続けた。すったもんだの末、大河内所長の好意で、36年、「理研感光紙」(後のリコー)が創設され、市村は専務取締役に就任。36歳であった。以降、市村は理研関係の重役を10社以上も兼任する。保険外交員から理研感光紙の重役へ       7北京に向かう前、生家にて(1922)(中央が市村)大学を中退して、大東銀行の北京支店へ赴任。大陸渡航は人生の大きな転機となった理研感光紙発足(前列中央が市村)(1936.2.6)1933年、理化学興業の感光紙部長となる。周囲の反発など紆余曲折を経て、36年、感光紙部を理研感光紙株式会社として創立、専務取締役に就任。吉村商会は解散し、理研感光紙福岡支店となる中央大学の学生時代(1920)貧しさのあまり、共産主義に傾倒したり、結核を患ったりしたが、翻意して肉体と精神の健康を取り戻す福岡の吉村商会と社員たち(1935)1929年、理研感光紙の九州総代理店の権利を得て、福岡に初めて店舗を構えた。理研という大企業との長きにわたる縁の、最初の糸の結び目が結ばれた。35年ごろには、満鉄攻略に成功し、感光紙を大量に発送する33年、理化学研究所の大河内正敏博士の招きで、理共栄貯金銀行久留米支店の同僚と(1916)(一番上が市村)中学を退学して、しばらく野菜売りをしていたが、共栄貯金銀行の事務見習員に採用された29年、富国徴兵保険を退社。理研感光紙九州総代理27年、金融恐慌の影響を受け、大東銀行は閉鎖。市小学校4、5年生(1910)貧しい生活だったが、成績抜群、遊びやいたずらでもリーダー格だった結婚(1925.1.26)大東銀行上海分行時代に結婚。妻となった幸恵は市村を励まし、支え続けた22年、大学を中退して、北京の大東銀行へ赴任。翌年、

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