1900(明治33)年4月4日、市村清は佐賀県の貧農の家に生まれた。士族の出である父は自負心が強く、子供にも非常に厳しかったが、仕事は長続きせず、生活は常に困窮を極めていた。小学2年生の頃、祖父が進学の元手にと雌の子牛を1頭買ってくれた。「この牛を育てれば、次々に子を産む。それを売って学費にすればいい」というわけだ。清は、わずかな小遣いも餌代に充て、遊ぶ間も惜しんで飼料の草やイモのつるなどを刈り集めたり、夢中になって牛の世話をした。ところが、ある日、この牛が税金のカタに持って行かれてしまう。祖父は「お国で決めたことだから我慢せい」となだめるが、10歳の子供に分かるはずもない。世の中の不合理に対する反抗心は、このときに芽生えたのかも知れない。こんな貧しい環境であったが、小学校の成績は常にトップで、遊びやいたずらでもリーダー格。いたずらに怒って追い掛けてきた先生を、丸木橋を外して川に落としたりしたこともある。伯母の援助で県立佐賀中学に入学したが、学費を援助される身はつらいことも多かった。情けなく悔しい思いが募り、とうとう中学を退学し、家に戻った。家計を助けるために野菜売りを手伝うが、事情を知らない旧友たちが「清さんは中学に行ったんじゃないの」とささやいているのを聞くと、自分の姿がみじめで、たまらなく恥ずかしかった。そんなとき、共栄貯金銀行で事務見習いを募集していると知って、応募し、見事に合格。それから2年、給仕のような仕事を続けた。その間に痛切に感じたのは、やはり勉強をしなければ一人前の世渡りはできないということであった。〝東京へ行って、勉強がしたい〟、その思いを恐る恐る支店長に伝えると、意外なことに、本店への転勤が認められたのである。乗る人力車の中や、銀行で待っている間にも学習書を読み、翌年、中央大学の夜間部に入学した。東京の生活も貧乏の極みであったが、他人の世話にはならないと誓い、水だけ飲んで過ごすこともまれではなかった。 大学2年のとき、資本主義にある不合理から貧富の差が激しくなり、それを改革するために共産主義が起こったという講義を聴いて、衝撃を受け、共産主義に傾倒。一方で、故郷の父母のことを思い、考え悩む日が続いた。当時、共産主義の実践運動は当局の弾圧下にあったからだ。そんなジレンマの中で、清は結核を患い、今度は死 6の恐怖にとりつかれてしまった。抵抗療法を強行して成績優秀ないたずら好きリコー三愛グループ創業者佐賀中学を中退して銀行に就職青雲の志を抱いて東京へ市村清の生涯19年、上京して本店勤務になる。現金運搬のときに
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