天下の回りもの〟などのキャッチフレーズも話題になった。の食料事情が安定してくると業績が落ち込んでいった。そこで市村は、女性のおしゃれ専門店へ業態変換して、起死回生を図る。その狙いが的中して、「銀座三愛」は戦後日本の女性ファッション業界を牽引する存在となった。ムセンター」が誕生。深夜0時の開店披露宴が東京中の評判となった。2023年、老朽化のため建て替えることを発表。銀座にふさわしいランドマークを目指し、現在工事が進んでいる。市村にとって故郷佐賀は、たくさんの悔し涙を流した地であり、生きる力と勇気を与えてくれた地でもあり、終生忘れることはなかった。佐賀県体育館(現市村記念体育館)や母校北茂安小学校講堂の寄贈などは、故郷に恩返しをしたいという願いの表れの一つであった。すでに病状は絶望的なもので、余命3カ月と診断された。 「裸で生まれてきたから、裸で帰る」「遺産を世の中の役に立つ仕事の基金としたい」という市村の思いを具体化すべく、三愛会の役員たちが奔走した。「新技術開発財団(現たのは亡くなるわずか4日前のことだった。市村清新技術財団)」設立の認可が下り終曲 9三愛石油羽田営業所開設式(1952.10.27)燃料タンク車が飛行機のところまで行って給油している様子を眺めているとき、水道のようにホースを引っ張ってきて給油すれば効率が上がるとひらめいた。この着想がやがてハイドラントシステムによる給油となる母校北茂安小学校に講堂を寄贈12月16日、永眠。全力で走りきった68年の人生だった。(1958.4.29)故郷には苦難の思い出が満ちていた。人生の前半はそこから脱却するための戦いであった。しかし、老境に至って思い浮かぶのは懐かしい風景である。故郷のために何かしたいという感慨がわき上がってきた68年秋、体の不調を覚え、精密検査を受けたときには、明治記念館創立時の記念撮影(左から5人目が市村)大阪にて電子リコピーBS-1発表会(1965.8)リコー三愛グループの中核であるリコーを無配としたため、世間の非難を浴びた。再建のための諸施策がとられ、その原動力となったのが電子リコピーの完成であった。そして、わずか2年半で復配を実現するコカ・コーラ第1号が空輸便で届く(1963.5.4)日本人はアメリカのまねが好きだから、きっとコーラも飲むようになる、と確信して事業を引き受けた(1947.11.1)戦後まもなく、明治神宮の再建に力を貸してほしいと要請を受けた市村は、結婚式場を思いつく。結婚相談から挙式・披露宴まで一切を斡旋するというスタイルが評判となり、大繁盛となった63年、銀座4丁目角に円筒ガラス張りの「三愛ドリートップでゴール!三愛会合同運動会において(1947.6.1)社内スポーツは社員同士の友好や結束を深める力となると考え、社内野球大会や合同運動会を開催。1968年11月、市村が社員の前に最後に姿を見せたのも、合同運動会の会場であった三愛ドリームセンターの模型を前に構想を練る(1960頃)円筒形のビルの着想は、奈良法隆寺の五重塔から得た。建物そのものが斬新だったため、あらゆる設備が新たに考案された46年の創業以来繁盛していた三愛も、数年後、国内
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