リコー三愛会グループのご案内 2025
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針を〝サービス業の開拓〟と決定。「三愛商事」を設立した。サービス業の最も大きな課題は、〝どこでやるか〟である。市村は東京の地図を広げて毎日眺めていたが、ある日、隅田川と鉄道と東京湾の線が三つどもえになって結ばれている点が、銀座4丁目であることに気付いた。戦前から銀座が東京の中心であったことには人知を超えた必然性があった。銀座4丁目は再び中心地になるに違いない、と確信したのである。売る店として名を高めた。同年4月、市村は44年に発足した、関連会社からなる「自蹊会」を「三愛会」と改め、12月にはグループ機関誌『三愛』を創刊、誌上で「三愛精神」を発表した。リコー三愛グループの特徴は、異業種の企業群ということである。「一人一業の企業というのは、例えば、本田技研やソニーのように、あらゆる力を一点に集中することによって他より抜きん出ることができるが、時勢の影響で斜陽産業に追い込まれることもある。一方、多角経営は最高にはなれないけれど、安全性は高い」と市村は考えたのだ。開拓者的な性格にも多角経営の方が合っていた。敗戦直後、明治神宮は参拝者もなく、すさみ果てていた。47年、明治神宮の再建に力を貸してほしいという要請を受けた市村は、元の憲法記念館を結婚式場「明治記念館」として再生。経営は明治神宮の名前でやるのだから、儲けは二の次だと考え、低価格に設定した。結果、周囲の予想に反して大成功を収め、現在に至っている。後年、市村が説いた経営哲学の一項目「儲ける経営より儲かる経営」は、明治記念館の創業の中で、自らが体験した真理であった。市村は、明治記念館の運営が軌道に乗ったのを確認し、経営から手を引いた。戦後の占領下では、日本国籍の航空機の運航が停止されていたが、50年、民間航空の再開が許可された。給する「三愛石油」を創立。航空機への給油にハイドラントシステムを考案し、出願するが、内外の石油資本の競願となる。市村は「日本の空の玄関は、日本人の手でやるべきであり、考えてプランを立てたのは自分である」とGHQに直訴、その場で羽田の給油権を得た。三愛石油の給油業務は、急速に増大する需要にも迅速的確な施設拡大によって対処して、高評価を得た。(2022年、「三愛オブリ」に社名変更)戦後、独占禁止法により理研感光紙の生産は戦前の咲く。そして、50年には二眼レフカメラの名作「リコーフレックスⅢ」を発売。感光紙とカメラを2本柱として、新しい時代へと踏み出した。繁に欧米を訪問。事務機の時代の到来を察知して、リコピーなどの製品開発に力を注いだ。社名は、市村自身が大いに気に入った。ミ市に、日本の桜を寄贈することを決めた。しかし、桜は病原菌予防のため輸入禁止と判明したため、東洋原産のオーキッド300本を寄贈。さらに、日本庭園(イチムラ・ガーデン)も築き、日米親善に一役買った。道路が開通。道路下に誕生した日本初のショッピングセンター「西銀座デパート」の初代取締役社長に就任し、センター内に「三愛」を出店。西銀座デパートは有楽町の新名所となった。に進出した。翌年、コカ・コーラの北九州地区ボトラーとして「日米コカ・コーラボトリング」がスタート。時流に乗って、年々倍増の販売成績を上げた。また鳥栖グリーン・プラント(公園工場)を竣工して、さらに業績を伸ばしていった。工業の再建に乗り出す。「一人もクビにしない」と約束して従業員の信頼を獲得。「リコー時計」と社名を変更し、半年後には33石ダイナミック・オートや19石ハミングカレンダーなどのヒット商品を生み出した。その後、品質問題が発生したが、企業体制を刷新して再出発。新製品「リコー・ダイナミック・ワイド」は海外でも人気を得た。(86年、「リコーエレメックス」に社名変更)テル三愛」をオープン。しかし、リコーの再建などのために、わずか2年で手放すことになり、市村は従業員たちの前で男泣きに泣いた。その後、ホテル三愛は幾度か運営会社や名称を変えたが、三愛精神は創業の精神として今も受け継がれているという。                    8ナショナル」が誕生。〝使用すれど所有せず〟〝機械は「三愛」の精神に徹してリコー三愛グループの礎を築くアイデア社長、躍進する57年、米国カメラショーの帰途に立ち寄ったマイア63年、社名を「リコー」に変更。カタカナ三文字の63年、日本初のリース会社「日本リース・インター10%程度まで減少したが、49年に業界1位の座に返り55年以降、カメラの輸出拡販と市場調査のため、頻64年、札幌市中島公園の一角に、超豪華ホテル「ホ55年、ハイドラント施設による初の給油が行われる。62年、時の通産大臣らの要請で、名古屋の高野精密46年8月、「三愛」をオープン。食料品を適正価格で52年、航空会社からの要請を受けて、航空燃料を供62年、福岡の事業家の要請を受けコカ・コーラ事業45年、敗戦。市村は終戦前夜の重役会で、戦後の方58年、西銀座の数寄屋橋の堀が埋め立てられ、高速

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