画像:適正価格

第24回適正価格

人気を呼び行列つづく
都に呼ばれ○公*厳守の方針に

安田から譲り受けた土地は戦前でも坪一万円以上していた所である。安田では財産税のうわさもあるし、価格は帳簿価格の四千五百円でいいと言ってきた。しかし、それは私の良心が許さなかった。とにかく坪一万で買いとることにし、余分の五千五百円は安田の人たちに善処してもらうことにした。佐野屋さんの方も無条件で提供するというのを、専門家に鑑定してもらい、それに二割増して譲っていただいた。いわば「三愛」の場所は人の善意によって生まれたようなもので、私としては実に気持ちがよかった。
しかしなにもかも順調にいったわけではない。六十九銀行跡の方はキリン・ビアホールに借地権があり、当時拳闘倶楽部の会長をしていた田辺宗英氏が関係していて、配下の荒くれ男たちに踏み込まれたこともある。なんのあいさつもないのかというわけだ。そういうことは当然安田の方で処理すべきことなので、私はガンとして応じなかったが、最後に田辺氏と会って話し合った結果、快く解決した。当時の世相からいって、田辺さんの協力を得ておくことは無意味ではなかったし、私は思いきって十万円の金を提供した。田辺さんとはそれが縁でずっと交際していた。
次は建物の苦労だ。当時東京都建築局の規定には「平屋建十五坪」という特殊制限があった。私は松村復興院総裁を訪ねて、幾度も私の方針を話し建築局長や銀座連合会の保坂会長の理解でようやく許可を得た。工事は間組が百万円で請け負い、二十一年七月に完成、八月二十日に開店の運びとなった。大理石を張りつめた建物だったのでだいぶ評判になったが、あの石材は、非常に苦心して特殊の方法で岐阜から運んだものである。
こうして、食糧品を中心に衣料や文房具などを売り出したが、当時のヤミ物価の上がり方はひどいものだった。二十二年には○公*では五十銭のたまご一個が十三円から十五円もした。こういう事態では、百貨店が率先してヤミ値を下げる運動をすべきだと思ったので私は大百貨店の幹部連中によびかけてみた。ヤミ値の商売はしかたがないが不正な暴利をなくすことはできるはずだ。不法ではあっても不正ではない価格、つまり適正価格で売ろうじゃないかと言ったのである。しかしこの呼びかけは一顧も与えられなかったので私は三愛主義を標榜(ひょうぼう)してきた手前、単独でもやろうと決心した。
○公*よりは何倍も高いがとにかく仕入値の三割―五割以上の利益はとらない――私は警視庁の食品課長と防犯課長をたずねてこの方針を説明し、もし違法で逮捕するというならいさぎよく縛につきましょうと言った。そして、築地、日本橋、浅草の三つの警察署長にもあいさつして、公然と〝適正価格〟で売り出したのである。それがたいへんな人気を呼んで、店の前には長い行列が続いた。そして「三愛」は急に膨張し、日本橋かど、浅草橋、菊屋橋などに支店を開き、ますます繁盛する一方になってきた。
ところがある日のこと「三愛」の店に都の経済局の係員が大勢乗り込んできて、いちいち領収書を取って行った。翌日私は経済局長の田中栄一さん(後の警視総監)から呼び出しを受けた。むろんデスクの上には私の店の領収書が幾枚ものっていた。田中さんは言った。
「こう公然とヤミをやられては都としては黙視するわけにはいかない。われわれにはあなたを逮捕する権限はないが、営業を取り消すことはできるのだ。今後も続けるというのなら営業停止を命ずるほかない」
東京都にそんな権限があるとは知らなかった。よし、それなら私の方は○公*で売るほかない。販売数量を制限しても資金の続くかぎり○公*で売り抜こう。私は帰って重役会議に諮り○公*厳守の方針を決めて実行した。もちろんたいへんな客の列が「三愛」の前に続いた。

(日本経済新聞:昭和37年3月16日掲載)※原文そのまま
*「○公」は、正確には「公」の字の周囲に○。「公定価格」の意味。

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜