画像:紙一重の差

第12回紙一重の差

ねばりにねばり成功
全国一の契約を集める

熊本市の九品寺町にある私立大江高等女学校の校長さんは竹崎八十雄という人だった。この人の家へも私はすでに八度も行っていたのだが、妻と誓った翌日の日曜日にまた出掛けて行ったのである。校門をはいって運動場を横切り、校長舎宅の玄関に立った。呼び鈴を押す手がなかなか出ない。竹崎さんの家のお手伝いさんがすばらしい別嬪(べっぴん)であることが、また私の羞恥(しゅうち)心をそそるのである。あの別嬪さんに、先生はいまお出掛けですよと言われて恥をかくのがオチだろうと思うと、またすごすごと門の所まで帰ってきてしまった。いやこんなことではだめだと妻の昨夜のことばを思い出し、勇気をふるってまた引っ返して呼び鈴を押した。美人のお手伝いさんが出てきた。
「あら、勧誘さんね、ちょっとお待ちください」といってお手伝いさんが引っ込むと、すぐ障子があいて竹崎先生が顔を出した。
「やあ来ましたね、待っていましたよ」と言う。私はドギマギしてしまった。どうして上へあがったかもわからない。
「市村さん、あなたのような募集の仕方で加入する人がありますか」「ありません」「そうでしょう」「先生どうしてでしょうか」「あなたはきょうで九度来られたが、こんど来たらはいろうか、と家内と相談していたところですよ」
そういって竹崎先生は、私の勧誘ぶりについていろいろ説明された。
ちょっと断ればすぐ帰って、かならず手紙をくれる。最初は見もしないで紙くずかごに入れていたが、五回目ぐらいになるとやはりよく見るようになる。見ると字もりっぱだし誠意があふれている。六度目、七度目には、こんどの勧誘さんは紳士的でりっぱな人らしい、ひとつはいろうか、と変わってくる。八度目にあんたが帰った時に、こんどきたら、ということになっていたんだ、というのである。
私が呼び鈴を押そうか押すまいかと迷っていたときは、すでに紙一重のところにいたのだ。私はなんとも言えない喜びと感動にひたりながら竹崎先生のお話を聞いていた。仕事はあきらめてはいけない。最後のひと押しが成否を決めるのだと、紙一重の差を私はそこで悟ったのだった。
竹崎先生はその場で加入と同時に五高の数学教授あての紹介状を書いてくれた。五高の先生にも、勧誘の態度がきれいだとほめられ、翌日学校の方へも来るように言われた。私のうわさが出ているというのだった。
それからは、次から次へととんとん拍子に契約ができていった。佐賀出身の同郷の方や体操の先生、みな七十日もの間、私が熱心にムダ骨のつもりで回っていることを知っていた。年の暮れの三十一日までに一万三千円になり、手当なども加えると私のふところへも一挙に百八十円がころがりこんだ。一躍三ヵ月分の収入だった。十月以来、黙々として働いたのは決してムダではなかったのである。
正月に福岡支部に行くと、契約者の名をじっと見ていた支部長は、第一相互の渡さんさえ手を焼いた熊本で、よくこんな成績をあげたものだ、とひどくほめてくれた。初めて私は仕事ヘの自信というものをつかんでいた。竹崎先生はじめ、会う人会う人が協力してくれ、ついに一ヵ月に五万円近い契約をとって、全国一の賞と社長から記念の軸物を送られる成績さえあげられるようになった。
その年の秋、富国生命の伊豆凡夫専務が福岡支部に来て私を呼び、佐賀県の監督になるよう依頼された。佐賀は故郷であるから、保険募集の仕事ではあまり行く気がしなかったのだが、伊豆専務に強く言われて私は引き受けた。熊本をたってすぐ佐賀に向かったが、その時の佐賀行きが、私を「理研」に結びつける道になろうとは、むろん気付かなかった。

(日本経済新聞:昭和37年3月4日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜