画像:闘病

第7回闘病

マラソンで抵抗療法
大学を中退して中国へ出発

姉崎嘲風の著を読んで、私はいかなる法難にも毅然(きぜん)として生命をかけてぶつかった日蓮の精神力にうたれたのである。だれかが死をかけてもやらなければ、社会は半歩も前進しないのだと気づくと、私は断固として実践運動にはいる決意を固めた。そのためにはまず親兄弟はもちろん、親しい友人知己とも交際を断たねばならぬ。それらの人に厄を及ぼさぬためである。忘れもしない大正九年の九月二十三日秋季皇霊祭の日に、私は次のような「断信宣言書」を印刷して、それらの人々に送った。
「小生儀今般感ずるところ有之、皆様に対し音信の礼を欠き申可候。よし御尊翰に接し候とも返信の儀は小生の任意と悪しからず御了承被下度候。右断信宣言候也」
そのころ町で会った旧友から意外なことを耳にした。同じ村から上京していたある男が共産党員としてとらえられ、故郷の家も家宅捜索を受け母親は半狂乱だったという。断信宣言などではだめなのだ。人一倍母を愛し、安心させ喜ばせようと思っていた私は、ドキンと胸をつかれ再び焦燥にかられだした。そしてついに銀行も休むようになった。そんなある日、私は泰恩寺の和尚(おしょう)に呼ばれた。
「市村さん、あんたおそろしく深刻な悩みにとりつかれたな、恋か、思想か?」
「恋なんかじゃありません」
「そんなら思想か、近ごろの共産主義とかいうものにとりつかれたのだな。世の中のことはなにごとも一長一短ありで、それが全部ということはない。......それよりも、君の顔色は尋常じゃない。主義や思想より、そんな顔色で肺病にでもなったら生命が先になくなるぞ」
いわれた通り私はそのころ毎晩寝汗をかいていた。私は愕然として、こんどは死の恐怖にとりつかれてしまった。
東京に嫁いでいた姉と、偶然御茶ノ水でばったり逢ったのはそんなころだった。蹌踉(そうろう)として歩いている私をみて、姉はよほどびっくりしたのだろう。すぐその足で私は順天堂病院の門をくぐらされた。診断は案のじょう、右の肺が侵されており、半年ぐらいは転地療養のうえ絶対安静が必要だということだった。
共産主義どころではない、自分の生か死かの境に直面しているのである。また私は哲学的な本をあさりだした。白隠禅師の闘病記「夜船閑話」もその一冊だった。万物の霊長たる人間が病菌におかされるのは病気を恐れるからである。病気に勝つためには、まず精神力でそういうものを追い払ってしまうことだ。これを読んで、私は、よし一つ病気と徹底的に戦ってみよう、どうせ死ぬのなら早いもおそいも同じことだと心を決めた。次の朝、私はシャツ一枚になって、肌寒い冬の町を、根津権現から上野公園に向かってかけ出した。マラソンで抵抗療法をやろうと決心したのである。
上野の山に駆け登ると、はだは汗びっしょりだが、実にさわやかな気分だった。タオルで膚をごしごしやり、また根津権現まで走ると水ブロに飛び込んで、赤くなるまで肌をこする―それを毎朝実行した。一週間もすると、いままでになく飯もうまくなり、夜もぐっすり眠れるようになった。これは案外死なずにすむなと思うと、思想より何よりも、結核をなおしたいという一念にかられた。
そのころ、共栄貯銀と、何海鳴という中国人との間に合併で新しく大東銀行を北京に設立する話があった。胸の病気を根治するには乾燥した大陸の空気がいいと聞いていたので、私はこの際思いきって日本をさり、シナ大陸に行こうかと考えついた。小出頭取に会って抵抗療法の一件などを話すと、望むなら会計係として出してもよいという。すでに健康もかなり回復していた。私は勇躍して旅じたくを整え、北京の任地へ向かった。
大正十一年九月のことで、このため中央大学は三年の途中で退くことになった。

(日本経済新聞:昭和37年2月27日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜