画像:生意気な生徒

第3回生意気な生徒

いつも先生を肩透かし
いたずら過ぎ、墓地に監禁

六年生のある日、読み方の時間だった。戸外の運動場から「遼陽城頭夜はふけてえー」と当時はやった軍歌が聞こえていた。読み方の本を前に立てて運動場の歌声に合わせて調子をとっているうちに、つい調子に乗りすぎて大声で歌い出してしまった。みんなの目が私に向く。先生はふだんから私のことを生意気な子だと思っていたのだろう。ムチをもってにわかに近づいてきた。目を見るとほんとうに怒ってるなとすぐわかった。ピュウと音をたててムチが飛んできた瞬間、私はさっと腰をかがめた。ムチは隣の子の首筋をいやというほどたたきつけた。私は机の下にもぐりこんで表へ逃げだした。先生は本気で追いかけてくる。学校の横に掘り割りがあった。すぎ丸太が一本渡してある。私は先に渡ると、先生が渡りかけた瞬間、それをはずした。
水音をあとに、私はどんどん逃げて家の方まで行き、さすがに家にははいれず、そら豆畑にかくれてしまった。どう考えてもきょうのことは自分が悪い。特にひきょうではなかったかと後悔した。父はつねにひきょうな男になるなというのが口ぐせだった。それだけに胸が苦しくなり、当分学校へはいけないなと思った。腹がすいてきたので、ひばりの声を聞きながら生豆をかじって夜まで畑の中にいた。母の呼ぶ声が聞こえた。
こらえきれなくなって私はとうとう泣き出してしまった。
母やおじ・おばまでが父にわびてくれたが父はガンとして聞き入れなかった。そうして食事も与えられず、墓地の中のどんぐりの木に荒なわで縛りつけられた。恐ろしさとひもじさで泣きわめいたがようやく夜ふけになって、今後絶対ひきょうなことはしないからと誓わせられて許してもらった。私も子供心に今後ひきょうなことはいっさいしまいと心に誓った。しかもそれは、今日までも生かされているような気がする。学校へ行ったのは、それから四、五日後のことだった。
もう一つ、やはり六年生のころ。松園分校場で体操の時間、私たちは一列横隊に並んでいた。「前へ進めッ」の号令で私どもは一斉に歩き出した。校庭の前に川が流れている。そこまでいっても「止まれ」の号令がない。ちょうど校務員さんが何か急用を告げにきて、先生はどこかへいってしまったのだ。間もなく先生が戻ってきて、私たちは一喝(いっかつ)をくらった。「だれが止まれと言ったか」というのである。私は級長だったので、代表して一つなぐられた。全くむちゃな話である。
それからしばらくしてまた同じ事があった。「前へ進め」のとき校務員さんが呼びにきたのだ。私は一策を案じ、皆をはげまして、こんどはどんどん川を渡り出した。ずぶぬれのまま向こう岸に上がり、そのまま裏山に向かって直進した。多少方向は曲がっていたかもしれぬが、裏山には山桃がいっぱいなっている。そこを目がけたのだ。みんなで木へ登り山桃をちぎっているところへ先生が追いかけてきた。
「お前たちは何をしているか」「まっすぐ進んだらここへきました」「方向が違っとる。まっすぐなら、あっちだ」
ということで、一列に並ばせられた。先生は長い竹ざおを持って後ろへまわった。足をなぐる気だな、とわかった。先生がさおを振り回した瞬間、私の合図で皆がパッととび上がった。先生はさおをから振りして、勢いあまってひっくりかえった。
私の小学校時代はだいたいこんなふうだった。

(日本経済新聞:昭和37年2月23日掲載)※原文そのまま

今日のひとこと
〜市村清の訓え〜


今日のひとこと 〜市村清の訓え〜